我々はもっと考える必要がある

 印刷が可能になった時、年々増える書籍数について、ショーペンハウアーは考える時間を奪われると批判した。
 ゲーム、インターネット、SNS。現代を見たら彼は何と言うのだろう?


 世界にとってよいものとわるいものに違いはない。花は咲き、散り、また咲く。きれいときたないは我々の感じ方である。だから、大事にしなければいけない。でも、どちらかを奪われたら、我々は両方を奪われてしまうだろう。我々は自分自身からさえ取り上げることもできるのだ。私が欲しいのは、私が幸いを感じるであろうものを見つける力と、それが内包する様々な可能性を受容する力だ。私は考えたいのだ。

 真に何かを感じている自分、そんな自分に気付いてあげられるのは、私しかいない。どれだけ誰かの意見を見ても、誰かに話を聞いても、そこに真実はない。歯がゆく、生じてゆく自分を抱きしめようと手を伸ばすが、いつだって言葉という網をすり抜け、風吹かば運ばれてゆく私は、私のそばに留まろうとあがき続けている。私はいつだって私だったのに、いつから離れてしまったのか?誰かの喜怒哀楽を迎えた時か?多数の目に顔を向けた時か?知らず知らずに、歩みは遠のき、私はよりちっぽけな自分となり、同じようにさまよう人々の間で泣きながら笑っている。